イギリスと日本を考える(1)
イギリスのエリザベス女王が天寿をまっとうされてお亡くなりになり ました。謹んでお悔やみ申し上げます。
昔、イギリスは七つの海を支配し、そして、400年ぐらい前、 諸事情でイギリスで食えなくなった人たちが危険を冒して広い大西洋 を粗末な船で渡り、何とかアメリカ大陸にたどり着きます。そして、 自分たちに食べ物を与えて助けてくれたインディアンを、さほどの 時間を置かずに、ほぼ全滅させてアメリカを建国しました。
ところで、英米の白人は人種的にアングロサクソンと言われますが、 この人達は実に優秀な人たちです。ただの優秀ではありません。 恐ろしいほどに優秀で強力なのです。
アングロサクソンは世界中に進出して、有色人種の国を植民地に して徹底的に弾圧して、富を収奪します。上記のアメリカの インディアンをほぼ全滅させたのは手始めにすぎなかったのです。
有色人種の国を植民地にして弾圧し、富を収奪したのは、 フランス、オランダ、スペイン、など他の白人国もありますが、 何といっても英米のアングロサクソンです。
しかも、英米のアングロサクソンは、植民地支配が実に巧みで、 弾圧し富を収奪しながら、弾圧され収奪された植民地の有色人種 の人たちに畏敬されているのです。見事なものだとしか言いよう がありません。
そして、遂に、そのアングロサクソンの恐ろしい毒牙が、 有色人種の中で、ほとんど唯一何とか植民地化を避けて必死に 独立を保っていた日本に到達する時が来ました。第二次世界大戦 です。
明治維新以降、日本は元武士階級の人たちが懸命に努力して アングロサクソンの優秀な恐ろしい毒牙を避けてきました。しかし、 時代の経過の中で国の指導層が元武士階級の人たちから 学校エリートに置き換わるにつれて愚行が多くなり、日本は アングロサクソンの恐ろしい術中に絡(から)め取られていくの です。
学校エリートは、海軍兵学校、陸軍士官学校、東大法学部、の卒業生達 でした。日本は、1902年日英同盟を結びます。この日英同盟 は当時の日本の安全保障にとって決定的に重要でした。この 日英同盟のおかげもあって、日本は対露戦争(日露戦争)に勝利 します。
ところが、1921年、この大切な日本の安全保障の命綱の 日英同盟がワシントン会議で破棄されます。この日英同盟の破棄は、 アメリカのどす黒い策略でした。アメリカの目的は日英を分断する ことによって、1、中国市場に乗込む 2、日本との戦いに備える 、というものでした。
そして、日英同盟の代わりに日本、イギリス、フランス、アメリカ、 の四カ国条約を提案します。そして、日本の全権大使、幣原喜重郎 (しではらきじゅうろう)はこのアメリカのどす黒い提案をあっさり と受入れるのです。
こうして、日英同盟は破棄され、代わりに日本の安全保障上、何の 役にも立たない四カ国条約が結ばれたのです。「日本国紀 百田尚樹 幻冬舎 2018年11月25日 第4刷発行」は言い ます。「日英同盟こそは日本の安全保障の要であり、日露戦争に 勝利できたのも、この同盟があったればこそである。しかし幣原は、 その重要性も、また変化する国際情勢における日本の立ち位置や アメリカの思惑も、まったく理解していなかった。日英同盟が破棄 されたことで、日本は後にアメリカと戦う時には単独で対峙しなけ ればならなくなった。これこそアメリカが望んでいたことだったの だ。」(346,347頁)
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ところが、高校教科書で ある 「詳説世界史(再訂版)著作者東京大学 名誉教授村川堅太郎他 3名 1987年3月5日発行 山川出版社」では、 この日本にとって致命傷の事件を「太平洋諸島の現状維持を定めた 日・米・英・仏間の四カ国条約がむすばれた結果、日英同盟は破棄され た。」(295頁)とだけ記述します。
アメリカのどす黒い思惑にも幣原の無能にも全く触れないのです。これ では、高校生は、その後の日本の悲劇、破滅の展開の理由が全く分かり ません。
この教科書の著作者東京大学名誉教授村川堅太郎他 3名が、この 日英同盟破棄の重大性を分かっていないのです。幣原と同じです。 そして、当然ですが、このような教科書の一字一句を死力を尽くして 暗記し記憶して、現代の科挙と言われる東大法学部入学試験を突破する 受験生は、ごく一部の天才を除いて、日英同盟破棄の重大性が分かる はずがありません。
東大法学部を卒業して、更に難しい外交官試験を通って外交官になる 秀才は、是非とも「日本国紀 百田尚樹 」を読んで欲しいものです。 そして、幣原喜重郎の二の舞、三の舞を繰返すことを避けてください。
それでは、そもそも、「日英同盟の重要性も、また変化する国際情勢 における日本の立ち位置やアメリカの思惑も、まったく理解していな かった。」と百田尚樹 が嘆く幣原喜重郎という人は、一体、どう いう人だったのでしょうか。
インターネットで調べてみます。1872年堺県(現大阪府)生、 1895年東京帝大法科卒、大学卒業後農商務省入省、翌年外交官試験 合格、外務省に転じる。その後、駐米大使、ワシントン会議全権大使、 国会議員、外務大臣、などを勤め、1945年総理大臣になります。 まことに絵に描いたような出世人生です。
この出世人生の原動力は、まず第一に、東京帝大法科を優秀な成績で 卒業したことです。第二に、書道、文章に優れ、ユーモアのある円満な 人柄です。写真で見る顔も、いかにも円満な人柄を思わせます。つまり、 学業優秀、穏やかな人柄、ということで人から尊敬され、愛される 人柄だったのです。こうしたことが上記の絵に描いたような出世人生 になったのです。
しかしながら、日本国民としては、ワシントン会議全権大使になる人は、 学業は振るわなくてもいい、人柄も悪くてもいいから、日英同盟の 重要性を深く認識し、変化する国際情勢における日本の立ち位置を理解し、 アメリカのどす黒い策略を見抜いて鋭く反撃する人であって欲しかった のです。
( 幣原喜重郎は、アメリカの手の平で転がされた)
ところが、抜群に学業優秀で人柄が良い幣原喜重郎は、アメリカのどす 黒い策略の手の平で、いいように転がされてしまって日本を危機に 陥れたのでした。どうして、こうなってしまうのか。私が色々考えるに、 現代の科挙と言われる東大法学部入学試験や官僚採用試験突破のための 過酷な記憶力重視の暗記勉強によって、危険を感じ取るための大事な感覚の 部分が破壊されているためなのです。
しかも更に残念なのは、ワシントン会議後、幣原本人に日英同盟を無く して日本を危機に陥れたという自覚が全く無い上、周りもそのことが 分からず、幣原を重用し続けたことです。幣原喜重郎の ワシントン会議全権大使は明らかに決定的な致命傷の人事ミスでした。
こうして、日本は幣原の無能のために、日英同盟無しにアメリカと向き 合わなければならなくなりました。こうなると、駐米大使は実に重要 です。ところが、日本が日英同盟を失って、アメリカと戦争せざるを 得ないかという切羽詰まった時の駐米大使に、日本は、とんでもない男 を選んだのです。野村吉三郎 です。
野村吉三郎は海軍兵学校を優秀な成績で卒業し、武官として 海外勤務 を長く経験し、国際会議にも出席します。そして、1940年駐米大使 となり、対米戦争(太平洋戦争)開戦 まで対米交渉にあたりました。
交渉相手はアメリカ国務長官 コーデル・ハルです。駐米大使野村吉三郎 は、アメリカ国務長官コーデル・ハルと通訳を入れ ずに交渉します。 ところが、コーデル・ハルは後年、回顧録でこのよう に書いたのです。 「野村は通訳を入れることを拒否した。しかし、私は、彼の英語が分か らなかった。」(「コーデル・ハル回顧録」)封印の 昭和史 渡部昇一、 小室直樹 初版 1995年8月31日 四刷 1995年10月 15日 徳間書店 」(258頁)。
何ということでしょう。驚くべき事です。駐米大使野村吉三郎の英語は、 交渉相手であるアメリカ国務長官コーデル・ハルに通じていなかったの です。それなのに、野村吉三郎は通訳を入れることを拒否したのです。 つまり、 野村吉三郎はアメリカ人に英語が通じるフリをしたのです。
これでは、 日本は対米交渉を何もしていないのと同じです。こんな状況で、 日本は300万人という途方もない犠牲者を出す対米戦争 (太平洋戦争) に突っ込んでいったのです。駐米大使野村吉三郎は、フリ をするのが 非常にうまい男だったのです。英語ができるフリをするのが 駐米大使 野村吉三郎の得意な処世術だったのです。
(次頁に続く)

