財務会計論を学ぶ(18)ー真実性の原則他@
これまで、もう一度、会計の勉強をし直そうと思って、会計学のテキスト として大変に名高い「財務会計講義、第12版、桜井久勝著 中央経済社」 を使って企業会計原則一般原則を勉強し直し、自分の長年の実務で経験 したことを織り交ぜながらこのサイトに書いてきました。
これまでに、このサイトで取上げたのは「正規の簿記の原則」「保守主義の 原則」「重要性の原則」です。
これ以外に企業会計原則一般原則には「真実性の原則」「資本と利益の区別 の原則」「明瞭性の原則」「継続性の原則」「単一性の原則」があります。
これらの「真実性の原則」などは、上記のテキストを読めば分かることであり、 また自分が実務で経験したことを取上げて書くようなこともありません。 そこで、これをもちまして企業会計原則一般原則の勉強を終りにしたいと思 います。
( 使ったテキストは目的が違っていた )
それにしましても、このサイトに書くに当たって、上記のテキストを全体を 通して最後まで読みましたが、桜井教授には誠に失礼ですが、何だかつまら ないなという読後感が残りました。
考えてみますと、上記のテキストは国家試験のテキストを主たる目的として 書かれていますので、通説(学者の世界で最も一般的とされている学説)を 基調にして、定期的に変わる試験委員の学説をその都度、適度に上手に取入 れて書かれていると思うのです。
受験用テキストとしての性質上、ご自分の考えを押さえて、通説にその時々 の試験委員の学説を巧みに取入れながら、国家試験のテキストを書くという 点で非常に苦心された書かれ方(かた)が、国家試験の受験生にとって大変 役立つということで、1994年初版発行以来現在まで四半世紀にわたる ロングセラーになっていると思うのです。
しかし、私が勉強し直そうと思ったのは現在の会計実務の勉強なのでした。 目的が違っていたわけです。そのため、上記のテキストを使ってこれ以上 勉強するのは止めることにして、別のテキストを探すことにしました。
但し、今回「財務会計講義、第12版、桜井久勝著 中央経済社」を通して 読んでみて、いわゆる通説を知るには大変便利な良いテキストだと思い ました。そのため、捨てないでとっておき、通説を知りたいときに使える 本として利用することにしました。
( 有名だけど読後ガッカリして捨てた本 )
ところで、私は過去に若かったとき、有名な会計学のテキストを読んで、 「時間の無駄だったな」とガッカリして捨ててしまった本があります。その ような本についても書いておきたいと思います。
まず、「広瀬義州著、財務会計、第13版 中央経済社」です。この本には、 「費用収益対応の原則は質的な対応も数量的な対応もしていない 〜略〜 期間損益計算とよばれるものの本質は、対応原則とは無関係に、別の基準に よって期間に帰属された収益と費用をあたかも対応しているかのように、 損益計算書上対照させて表示し〜略〜」450,451頁 と書かれてい ます。
私は、この部分を読んで驚きました。つまり、広瀬教授は財務会計の 根本原則である費用収益対応の原則の存在を否定しているわけです。考え方 の違いというか、学派の違いというか、あっけからんと費用収益対応の原則 を否定します。
しかしながら、長年にわたって会計実務を担当してきた私のような者とし ましては、財務会計の根本原則としての費用収益対応の原則の存在を考える ことなしには会計実務を適切に遂行することは困難であると考えるのです。
企業で会計を担当していますと、これまでに経験したことが無い新しい事態 に出会うことがあります。会社が新事業に進出した場合などです。この ような場合、適切な会計処理を実施するには「新事業の費用と収益を適切に 対応させる」すなわち、会計の根本原則としての費用収益対応の原則を 考えて会計処理を考えなければなりません。
このような場合、広瀬教授の考え方ですと思考の出発点となる統一的な原則、 原理の無い、したがって、とても心許(こころもと)ない状況になります。
私が経験した例は、「財務会計論を学ぶ(11)(12)」に書きました。 そこでは記録の原理としての正規の簿記の原則を元に書きましたが、その 奥には会計の根本原則としての費用収益対応の原則があるのです。
会計公準から出発して展開する財務会計理論は財務会計の根本原則である 費用収益対応の原則に貫かれているのです。
この違いは、目の前に展開する現象の奥にあって、その事象を支配している 原則、原理の存在が見えるか見えないか、の違いだと思うのです。誠に失礼 ながら、広瀬教授にはそのような原則、原理の存在が見えないのです。
( 原則、原理を見るには「知性の視力」が必要である )
このような原則、原理を見ることができるためには「知性の視力」が必要 です。学者の方(かた)には、「知性の視力」が生まれつき備わっている方 (かた)と、生まれつき持っていない人がおられるように思われます。
そして、「知性の視力」が生まれつき備わっている学者の方(かた)は 少数派であり、一方(いっぽう)「知性の視力」を生まれつき持っていない 多数派の人は、どんなに勉強して努力しても「知性の視力」を手に入れる ことはできません。つまり、その辺の大学に沢山いる、ありふれた凡庸な 学者の先生となるのです。
(次頁に続きます)
(了)