(2020/9/1)

竹内靖雄「市場の経済思想」を読む(1)

私は1960年代後半に、ある草深い地方から上京して私大の経済学部 に入学したのでした。そして、2年生から専門科目の授業が始まったの です。

経済原論、経済史、金融論、財政学、経済学史、、、、といった授業で した。授業科目の名称は違うのですが、内容はほとんど同じように私には 思えるのでした。

価値、使用価値、搾取、産業予備軍、独占資本主義、、、、といった用語 がどの先生からも出てくるのです。それはどの先生も、ドイツ人マルクス が書いた「資本論」という本を参考に講義するからでした。

どの先生もドイツ人マルクスが書いた「資本論」という本が経済の真理 を説いた最も優れた最高の本であると言うのでした。「資本論」への 批判は許されないという雰囲気です。

アダム・スミスやリカードといった古典派経済学の学者は、真理の書 マルクス「資本論」と比較して、「ここが間違っている」、「ここが遅れ ている」、「ここに限界がある」などと散々に批判されるのでした。

しかし、私には先生達の講義が経済の真実を話しているとは思えませんで した。経済原論の冒頭で先生は、「資本主義経済を象徴するものは商品で ある。商品には使用価値がある。例えば、リンゴは食べればおいしくて 栄養になる。鉛筆は削って字を書くことができる。そのような人間への 役立ちが使用価値である。そして、この使用価値を商品から取り除く ならば、そこに価値が現れる。」と話しました。

しかしながら、人間への役立ちである使用価値を取り除けば、商品は商品 ではなくなります。マルクスは経済をドイツ観念論哲学で頭の中でこねま わしたのでした。ところが経済は目の前で展開する現実であって、頭の中 でこねまわしても、どうなるものではありません。

私は先生達が話す経済学に強い違和感を感じて、経済学については卒業に 必要な必修科目だけを取って終りにし、簿記会計や商法といった科目を 取って卒業したのでした。

そして、私は長い間マルクス「資本論」の概略をなぞったような先生達の 講義に感じた違和感の理由は分からず謎のまま会社員になって生きてきま した。

( 竹内靖雄「市場の経済思想」について )

そして、70歳になって偶然に「市場の経済思想 1991年6月30日 第1刷発行 竹内靖雄 創文社」を読んで、20歳の頃に抱いた大学の 先生達の講義に感じた違和感の理由が分かったのです。

著者竹内靖雄は、紀元前4世紀のアリストテレスの古代経済思想から 始めて、中世のキリスト教、重商主義、アダム・スミス、マルクス、 ケインズ、ケインズ以後、といった各時代の経済思想の歴史を詳細に分析 します。そして、次のように経済思想の歴史を説明します。

始めにアリストテレスが「市場における人間の活動」(資本主義経済)に 反対する立場をとって以来、経済思想は反市場、反資本主義の立場がとら れてきた。そこに、アダム・スミスが現れてその著書「国富論」によって 「市場における人間の活動」(資本主義経済)が自然なものであることを 主張したのです。18世紀のことでした。

アダム・スミス以後、経済学の主流は「国富論」を出発点として展開しま す。しかし、19世紀になって、「市場における人間の活動」(資本主義経済) に反対するアリストテレス以来の経済思想が、新たに「科学の装い」を して再登場します。ドイツ人マルクスです。

マルクスの反資本主義思想は共産主義思想でした。そして、マルクスの 共産主義思想はその「科学の装い」によって強力な力を発揮して 共産主義国家ソ連を生みだし、20世紀を通して世界に大きな負の影響を与え たのです。

そして著者竹内靖雄は経済思想の歴史全体を見通した上で次のように 結論づけます。「資本主義に対する倫理的な批判や反感からその拒否へと 飛躍することは健全な態度とはいえないのである。それは反則や目に余る 不公正さえなければ容認するほかない現実であるにすぎない。問題はその 欠陥や「失敗」に対処して、可能な限り改善を図ることにある。」 (まえがき)。

この著者竹内靖雄による経済思想の説明とそこから導き出される資本主義 経済観の結論は自然で強い説得力を持っています。

(次頁に続きます)

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